はじめに
読んでいるあいだ、何度もページを閉じようと思いました。
胸の奥がきゅっと締めつけられて、これ以上読んだら自分の中の何かが壊れてしまいそうで。
それでも、気がつくと次のページをめくっているのです。
辻村深月さんの『朝が来る』は、そんな読書体験を与えてくれた一冊でした。
前半は穏やかで、どこか「守られている」ような空気が流れています。
ところが後半に入った瞬間、物語の温度ががらりと変わり、読者は否応なく現実の重さに引きずり込まれます。
とくに、片倉ひかりという一人の女性の人生に向き合う時間は、苦しいのに目を逸らせませんでした。
この物語は、優しさと残酷さが隣り合わせで存在していることを、静かに突きつけてきます。
本書の概要
- 作品名 :朝が来る
- 著者 :辻村深月
- 出版社 :文藝春秋
- 発刊日 : 2015年6月15日
- 頁数 :368ページ
- ジャンル:文学/日本文学、小説・物語
あらすじ
栗原佐都子・清和の夫妻は、長い不妊治療の末に、特別養子縁組で男の子・朝斗を迎え入れます。
待ち望んだ家族との暮らしは、多少の不安やすれ違いを抱えながらも、穏やかで幸福なものに見えました。
そんなある日、佐都子のもとに一本の電話がかかってきます。
電話の主は、朝斗の産みの母だと名乗る女性、片倉ひかりでした。
「子どもを返してほしい」
その一言から、物語は大きく動き始めます。
前半では栗原夫妻の視点を中心に、後半ではひかりの人生が語られていきますが、どちらか一方が「正しい」と言い切れる構図ではありません。
読者は常に、答えの出ない問いの前に立たされることになります。
作品テーマ
①産むことと、育てること
この物語が問いかけてくるのは、「母親とは何か」という、とても根源的なテーマです。
血を分けたから母なのか。
日々世話をし、愛情を注いだから母なのか。
『朝が来る』は、そのどちらかを選ばせるようなことはしません。
むしろ、どちらの立場にも言い分があり、どちらにも痛みがあるという事実を、淡々と、しかし容赦なく描いていきます。
②選択のあとに残るもの
登場人物たちは、それぞれの人生の中で選択を重ねてきました。
その選択は、決して軽いものではありません。
そして一度選んだ道は、なかったことにはできないのです。
とくに後半で描かれるひかりの人生は、「選ばされてきた選択」の連続だったようにも感じられます。
それがどれほど人の心を追い詰めるのか、本作は静かな筆致で伝えてきます。
テーマから見る本書の魅力
①前半と後半の、あまりにも大きな温度差
私が強く心を掴まれた理由のひとつが、前半と後半のコントラストです。
前半の栗原夫妻パートには、確かに苦しさはあります。
不妊治療のつらさや、周囲との微妙な距離感など、簡単ではない現実が描かれています。
それでも全体としては、「まだ守られている世界」にいるような印象を受けました。
ところが、ひかりの人生が語られ始める後半では、空気が一変します。
生活の基盤が脆く、頼れる場所がなく、選択肢が少しずつ削られていく感覚。
読んでいて、息が詰まるような思いがしました。
この温度差があるからこそ、物語の問いがより鋭く胸に突き刺さります。
②サスペンスでありながら、人間の物語
「子どもを返してほしい」という電話は、確かにサスペンス的な緊張感を生みます。
一瞬、恐ろしさや不安が前面に出てくるのですが、本作が描こうとしているのは単なる事件ではありません。
むしろ、恐ろしいのは人が追い込まれていく過程そのものです。
誰かを責めれば済む話ではないことが、読めば読むほど分かってきます。
③ひかりという人物の存在
片倉ひかりは、決して「好感の持てる人物」として描かれているわけではありません。
読み手によっては、理解しがたい行動に映る場面もあるでしょう。
それでも、彼女の人生を知ったあとで、「この人を単純に否定できるだろうか」と自問せずにはいられませんでした。
この複雑な感情こそが、『朝が来る』の大きな魅力だと思います。
登場人物紹介
栗原佐都子 ――「母になりたい」と願った人
栗原佐都子は、不妊治療を経て、特別養子縁組という選択にたどり着いた女性です。
彼女は、強く声を張り上げるタイプの人物ではありません。
むしろ周囲の空気を読み、慎重に言葉を選びながら生きてきた人だと感じました。
だからこそ、母になることへの想いも、とても静かで切実です。
誰かに誇示するためではなく、「ただ、家族として生きたい」という願いが、日常の一つひとつに滲んでいます。
読んでいると、佐都子の選択は決して身勝手には映りません。
それでも完璧な善人として描かれているわけでもなく、迷いや恐れ、弱さも抱えています。
そのリアルさが、物語に説得力を与えています。
栗原清和 ――支えようとする側の苦しさ
佐都子の夫である清和は、穏やかで理性的な人物です。
家庭を守ろうとする姿勢は一貫していますが、同時に「どうすれば正解なのか分からない」立場に置かれ続けます。
彼は物語の中で、感情を爆発させることは多くありません。
それでも、妻や子どもを守りたいという気持ちと、現実的な判断の間で揺れ動く姿が印象に残ります。
清和の存在は、この物語が単なる「母親の話」ではないことを示しています。
家族とは何か、夫とは何かを、静かに問い返してくる人物です。
片倉ひかり ――もう一人の主人公
そして、『朝が来る』という物語を語るうえで、決して外せない存在が片倉ひかりです。
彼女は、朝斗を産んだ「産みの母」であり、後半パートの実質的な主人公でもあります。
ひかりの人生は、最初から順風満帆だったわけではありません。
むしろ、家庭環境や経済状況、人間関係の中で、常に不安定な足場の上に立たされてきた人物です。
彼女の語りは、ときに荒く、投げやりで、読者を突き放すように感じられることもあります。
ですが、その言葉の裏には、「誰にも頼れなかった時間」が確かに存在しています。
ひかりは、間違いを犯します。
後悔もします。
それでも、彼女の人生を最後まで読んだとき、単純に「この人が悪い」と言える読者は、ほとんどいないのではないでしょうか。
キャラクターの魅力と考察
ひかりの魅力は「共感しづらさ」にある
ひかりというキャラクターの最大の魅力は、分かりやすい共感を拒むところにあります。
彼女は、読者に寄り添ってはくれません。
「かわいそうでしょう?」とも言いません。
むしろ、不器用で、選択を誤り、感情を持て余しながら生きています。
だからこそ、ひかりの人生は強く心に残ります。
現実には、誰もが彼女のような極端な状況に置かれるわけではありません。
それでも、「選択肢が少ないまま生きる苦しさ」や、「助けを求める言葉を知らない孤独」は、決して他人事ではないはずです。
後半パートを読み進めるほどに、ひかりは「物語の装置」ではなく、確かにどこかで生きている一人の人間として立ち上がってきます。
この感覚こそが、『朝が来る』を忘れがたい作品にしている理由だと感じました。
二人の母が並び立つということ
『朝が来る』が特別なのは、
「どちらか一方の母を選ばせない」
という点にあります。
栗原佐都子と片倉ひかり。
二人はまったく違う環境で、まったく違う選択をしてきました。
それでも、どちらも間違いなく「母であろうとした人」です。
この二人を同時に描くことで、物語は一気に奥行きを持ちます。
読者は自然と、自分の立場や価値観を問い直すことになるのです。
キャラクターを通して見える、この物語の本質
『朝が来る』は、出来事そのものよりも、
「その人が、どうやってそこに立ってしまったのか」
を描いた物語です。
だからこそ、登場人物たちはみな不完全で、迷いながら生きています。
それが読者の心を痛ませ、同時に離れがたくさせる理由なのでしょう。
読後の感想
『朝が来る』を読み終えた直後、正直に言えば、すぐに「面白かった」と言える気持ちにはなれませんでした。
それくらい、心に残るものが重たく、簡単に言葉にできなかったのです。
特に後半、片倉ひかりの人生を追う時間は、読んでいて何度も胸が痛みました。
彼女の選択や言葉に、うなずけない部分がなかったわけではありません。
それでも、ページを閉じてしまえなかったのは、「もし自分が同じ場所に立たされたら」と考えずにはいられなかったからだと思います。
一方で、前半の栗原夫妻の描写があったからこそ、物語は一層残酷で、そして誠実に感じられました。
守られている生活と、そうでない現実。
その差をはっきりと描いたうえで、どちらかを単純に否定しないところに、この作品の強さがあります。
『朝が来る』は、読者に答えを与えてくれる物語ではありません。
むしろ、読み終えたあとに問いだけを残していきます。
「正しさ」とは何なのか。
「母である」とはどういうことなのか。
そして、自分はどこに立つのか。
重たいテーマではありますが、目を背けずに読んでよかったと、時間が経つほどに思える一冊でした。
もし今、少しでもこの作品が気になっているなら、ぜひ自分自身の感情で確かめてみてほしいです。
きっと、読み終えたあとに迎える“朝”は、人によって違った色をしているはずです。
『朝が来る』をおすすめしたい人
- 重たいテーマでも、しっかり向き合いたい人
- 家族や親子のかたちについて、考えたことがある人
- 社会問題を「自分ごと」として感じたい人
- 読後、簡単に答えが出ない物語が好きな人
読みやすい作品ではありません。
ですが、読み終えたあと、確実に心に何かが残る一冊です。
まとめ

『朝が来る』は、読者に優しい物語ではありません。
誰かの人生を覗き見するような感覚に、罪悪感すら覚える瞬間があります。
それでも、目を逸らしてはいけない現実が、確かにそこにあります。
前半の穏やかさと、後半の痛み。
その落差があるからこそ、私たちは「自分ならどうするか」を考えずにはいられなくなるのです。
読み終えたあと、すぐに感想を言葉にするのは難しいかもしれません。
けれど時間が経つほどに、じわじわと意味を持ち始める物語だと思います。
『朝が来る』を読んだ人におすすめの本
①『青空と逃げる』辻村深月
ある事情を抱えた親子が、追われるように逃げながら生きていく物語です。
派手な事件が続くわけではありませんが、移動する先々で浮かび上がる心の距離が胸に残ります。
「守る」とは何か、「一緒に生きる」とはどういうことなのかを、『朝が来る』とはまた違う角度から考えさせてくれる作品です。
②『傲慢と善良』辻村深月
婚活という身近なテーマを通して、「誠実でいること」の難しさを描いた一冊です。
善良であろうとするほど、いつの間にか誰かを傷つけてしまう――そんな現実が、丁寧に言葉にされています。
『朝が来る』と同じく、登場人物の誰かを簡単に悪者にできない構成が印象的で、読み終えたあと自分の価値観を静かに揺さぶられます。

